LOGIN第九話 母の声
五月、桜の花が全て葉に変わった頃、一人の妓女が吉原から出ていく。
長年、三原屋のトップに君臨していた玉芳が身請けされるのだ。
「本当に、この時が来るなんてね……」 采が涙ぐみ、話す。
「今まで、本当にありがとう……母様《ははさま》」 そう言って、玉芳が采に抱き着いた。
三原屋は、とてもファミリー感覚な妓楼である。
「父様《ととさま》も、本当にお世話になりました」 ここでも玉芳が文衛門に抱き着いた。
一階の大部屋では、祝賀ムードになっていた。
妓楼の見世先には大量の花が届き、幕《まく》まで出していた。
「おや、梅乃は?」 玉芳がキョロキョロして梅乃を探していた。
「こんな所に居たのかい……」 玉芳は、台所に座っていた梅乃を見つけた。
「すみません……なんか、急に寂しくなって……」 梅乃は、涙をポロポロと流しながら話していた。
「また、会いに来るから」 玉芳はニコッとして、梅乃の頭を撫でた。
「もうじき、大江様が到着されます」 男性従業員の言葉が聞こえ、一斉に支度に取り掛かるのであった。
「梅乃、小夜、しっかり勉強をするのですよ」 玉芳は、母親のような口調だった。
そこには、梅乃も、小夜も同じ気持ちでいた。
妓女としてだけではなく、母親のような存在であった玉芳の引退に、幼い二人には厳しい現実であったのだ。
そして、大江より先に花魁同士で しのぎを削《けず》ってきた仲間が祝福に訪れてきた。
「玉芳花魁……おめでとう」 長岡屋の喜久乃と、鳳仙楼の鳳仙である。
「なんだ~ 来てくれたの?」 玉芳は、この上ない笑顔だ。
「当たり前じゃないか! 大見世の花魁同士だよ」
玉芳を始め、喜久乃や鳳仙と言った大見世の花魁が集結した三原屋は賑やかである。
ただ、一般の妓女からすれば天上人である。 生きた菩薩の三人の空気に圧倒されるばかりであった。
「紹介するわね。 喜久乃花魁と鳳仙花魁よ!」 玉芳は、二人を三原屋に紹介していた。
「あれ? あの娘《こ》は?」 喜久乃がキョロキョロしながら言い出した。
「あの娘?」 玉芳が首を傾げる。
「ほら、禿の元気な娘よ。 梅乃だよ」 鳳仙が説明した。
「あぁ、台所で泣いてるわよ」 玉芳は、苦笑いで答えた。
「仕方ないか……本当に母親みたいだもんね」 鳳仙は勉強会などで、玉芳が率先していたことを知っているだけに梅乃の気持ちも解っていた。
「こんにちは……鳳仙花魁、喜久乃花魁」 梅乃は泣き止み、大部屋に出てきた。
「お~梅乃、泣きべそだね~」 鳳仙は満面の笑みで、梅乃の頬を撫でた。
「これからも、ちゃんと玉芳の言われた事を守るんだよ」 喜久乃も梅乃の心配をしていたようである。
「ありがとうございます」 梅乃は、しっかり頭を下げた。
「大江様、大門の前に到着されました」 男性従業員が大声で叫ぶ。
「さて、時間がきたね……」 玉芳は、ゆっくりと腰をあげた。
「玉芳……」 采は、ぐっと涙を堪えていた。
「お母さん……」
「玉芳……」 文衛門にも涙がこぼれた。
「お父さん……」
「菖蒲、勝来、梅乃、小夜……しっかり、三原屋の菩薩になるんだよ」
禿の時代、そして妓女になっても四人の間柄は変わらなった。
「姐さん……」 三原屋の全員が玉芳の門出に涙していた。
「さぁ、行くよ! 最後の花魁道中だ」
三原屋を出た玉芳に、盛大な拍手が送られた。
そして江戸町一丁目から大門は近くである為、一番奥の水道尻まで歩いて折り返すルートにしていた。
「旦那、少しお待ちを……」 大門の守衛は、大江の茶を出していた。
ゆっくりと仲の町を歩く姿は神々しかった。
「派手だなぁ……」
仲の町を歩く人々は、みんな見ていく。
先頭に玉芳、二列目に祝福をする鳳仙と喜久乃までもが外八文字で歩いていた。
この噂は吉原中に広がり、他所の見世の客や妓女までもが見物に来ていた。
「ごめんね……一緒に歩いて貰って……」 玉芳は、申し訳なさそうに鳳仙と喜久乃に謝っていた。
「いいのよ……これもウチの宣伝になるしね♪」 喜久乃は、まんざらでもなさそうであった。
そして引手茶屋の前、足を止めて左右の茶屋に礼をする。
今までの感謝を伝えていたのだ。
「私も使おう……」 今まで、引手茶屋に礼と言えば金銭の事になるが、この一礼だけでも印象は変わる。 鳳仙は、玉芳が花魁として愛された理由《わけ》を知った。
そして大門に到着する。
この大門に集まった者は、数百人いた。
「お待たせしました……」 玉芳は、ニコッと微笑んだ。
「あぁ、素敵だったよ」 大江も微笑んだ。
玉芳は、くるっと回り
「今まで、ありがとうござんした……玉芳は、これから大江様と歩んでいきんす……」 玉芳は、涙でいっぱいになっていた。
そして、ゆっくりと高下駄から足を下ろすと
「玉芳――っ」 観客から別れを惜しむ声が響いた。
玉芳は、振り返らずに前へ足をだして大門の外に出た瞬間
「お母さん―」 大声で叫ぶ声がした。 梅乃である。
玉芳は、足を止める。 それでも振り返らずに大門の外に待たせてある車に乗った。
見送った全員は、見えなくなるまで玉芳を見送っている。
「うぅぅ……」 必死に涙を拭《ぬぐう》う梅乃と小夜に、菖蒲が肩に手を置いて、
「私も姐さんみたく、泣いてくれるかい?」
「はい……でも、行かないで……」 梅乃の返事は、菖蒲の涙を誘うものであった。
「よし、私も頑張って働くかね……」 喜久乃が声を出すと
「そうね。 ライバルが減ったからね♪」 鳳仙も寂しさを吹き飛ばすかのように声を出した。
三原屋の一時代は終焉《しゅうえん》を迎えた。
そして、翌日には次の戦略会議が行われていた。
「次の花魁ねぇ……玉芳が長いこと君臨《くんりん》していたから、考えてなかった」
采は頭を抱えていた。
「う~ん」 文衛門も悩んでいた。
ここで二人の候補が浮上していた。
一人目は、信濃《しなの》 二十五歳である。 信濃は学もあり、琴の才能もあった。
売上も程々良くて、三原屋で十年働いている。
二人目は、花緒 二十四歳である。 花緒は近藤屋の閉鎖に伴い、三原屋が引き取った四人のうちに一人である。
気立て、優しさは申し分なく頼れる逸材《いつざい》である。
「ここは、迷うな……」 文衛門は難しい選択に迫られていた。
花魁次第で、見世の売上や評価が変わるからである。
新しい吉原《よしわら》細見《さいけん》の作り直しに、時間が差し迫っていた。
【吉原細見】とは、江戸時代に蔦屋《つたや》重三郎《じゅうざぶろう》が版元として売っていた吉原のガイドブックである。
各妓楼の妓女や、料金などが書いてある本の事である。
「どうする……」 文衛門が悩み、二日が経った。
「おはようございます♪」 梅乃と小夜は、見世前の掃除をしていた。
他の見世であれば男性従業員の仕事であるが、梅乃たちは自ら掃除をしていた。
「梅乃、小夜……ここだけの話しじゃ、守れるか?」 文衛門は、まさかの禿に聞く案を使った。
これは大人の色眼鏡を通した目より、純粋な目を借りて参考にしようとしていた。
「梅乃と、小夜は、誰が花魁なら良いと思う?」
「う~ん……私は信濃姐さんかなぁ」 小夜が言う。
「どうして?」 文衛門は、前のめりで聞いていた。
「いつも、お客さんが居て人気だから……」 小夜の言葉に、文衛門が頷いた。
「それで、梅乃は?」
「私は勝来姐さん」
「勝来?」 文衛門は驚いていた。
「勝来は、これから新造出しだよ?」
「うん。 だから将来的に勝来姐さん」
「将来的にかぁ……なんで勝来なんだい? それなら菖蒲じゃないかい?」
「菖蒲姐さんでも良いと思います。 玉芳花魁が育ててくれた姐さんだし……」
「それなのに、勝来かい?」
「それは、お武家様の人で、教養と冷静さがあるから」
梅乃の言葉に、文衛門は驚いていた。
(この娘、そこまで先を見ているのか……)
そして話しが終わり、文衛門は采と話をしに行った。
「ちょっといいかい?」
「なんだい?」 采は、そろばんを弾きながら返事をする。
「あの子たちにも聞いたんだ」
「あの子って、梅乃と小夜かい?」
「小夜は信濃、梅乃は、何故か勝来と言ったんだ……」
「勝来? 菖蒲じゃなく?」 采はキョトンとしていた。
「まぁ、ひとつの案として聞いたんだけどね」 文衛門は、それを言い残して去っていった。
大部屋は女の部屋である。 主《あるじ》の文衛門でも男である為、長居はできないのだ。
「ふ~ん」 采はチラッと勝来と信濃を見ていた。
そして翌日
「勝来、ちょっと来な!」 采が勝来を呼んだ。
「なんでしょう? お婆」 采の前に正座をする。
「お前、もう十四だろ? そろそろ新造出しをするかい?」 采の言葉に、勝来は驚いていた。
「いいんですか? 菖蒲姐さんも新造出しをしたばかりで……」
「お前の気持ちを聞いているんだよ……」 采は、勝来の覚悟を確かめていた。
「はい……お願い致します」 勝来の返事で、覚悟が決まった。
「お前さん、勝来に賭けてみようじゃないか」 采は奥に居た文衛門を見て、ニヤリとした。
「とりあえず、信濃を置くよ」 そう言って、采はやり手の仕事に戻っていった。
絶対的な支柱を失った三原屋に、これからの手腕が試される時が来たのである。
第四十九話 接近 春になり、梅乃と小夜は十三歳になる。 “ニギニギ ” 「みんな よくな~れ」 桜が咲く樹の下、禿の三人は手を繋ぎジャンプをする。 「こうして段々と妓女に近くなっていくね~♪」 小夜はワクワクしている。 (小夜って、アッチに興味あるんだよな~) 梅乃は若干、引いている。 「そういえば、定彦さんに会いにいかない? 『色気の鬼』なんて言われているし、そろそろ習わないと……」 小夜は妓女になる為に貪欲であった。 「なら、お婆に聞かないとね。 定彦さんもお婆に聞いてからと言ってたし」 梅乃たちは三原屋に戻っていく。「お婆~?」 梅乃が声を掛けると采は不在だった。「菖蒲姐さん、失礼しんす」 梅乃が菖蒲の部屋に行くと、勝来と談笑をしていた。「何? どうしたの?」 菖蒲が聞くと、「あの……定彦さんから色気を習いたいのですが……」(きたか……) 菖蒲と勝来は息を飲む。「あのね、梅乃……お婆は会うのはダメと言っているのよ……」 菖蒲が説明すると、「そうですか……」 梅乃は肩を落とす。「理由は知らないけど、そういうことだから」 梅乃が小夜に話す。「理由は知らないけど、お婆がダメと言って
第四十八話 鬼と呼ばれた者とある午後、菖蒲と勝来で買い物をしていた。 本来なら、立場的に御用聞きなどを頼めるのだが気晴らしがてらに外出をしている。 「千堂屋さんでお茶を飲みましょう」 菖蒲が提案すると、勝来は頷く。 「こんにちは~」 菖蒲が声を掛けると、 「あら、菖蒲さん。 いらっしゃい」 野菊が対応する。 「お茶と団子をください」 妓女である二人だが、年齢でいえば少女である。 こんな楽しみを満喫してもいい年齢だ。 そこに、ある張り紙が目に入る。 「姐さん、あれ……」 勝来が指さすものは、注意書きであった。 そこには、『円、両 どちらも使えます』という張り紙だった。 明治四年、政府の発表では日本の通貨が変更される事だった。 吉原では情報が遅く、いまだに両が使われていた。 通貨の変更から一年が過ぎ、やっと時代の変化に気づいた二人だった。 江戸時代であれば、両 文 匁などの呼称であったが、明治四年からは、円 銭《せん》 厘《りん》という通貨になっていた。 ただ、交換する銀行が少ない為に両替ができない場合もあり、両なども使えていた。 「時代が変わり、お金も変わるのね~」 実際、働いたお金のほとんどが年季の返済になっていて、手にするお金は小遣い程度だ。 価値などは分からなくて当然だった。 三原屋に帰ってきた二人は、采に通貨の話をすると、 「あ~ なんか聞いてたな……そろそろ用意しようかね~」
第四十七話 遊女の未来明治六年 三月。 政府の役人が礼状を持ってきた。「去年の秋にお達しが来ているはずだ。 妓女を全員解放するように」「はぁ……」 文衛門は肩を落とす。明治五年の終わり、政府からの通知が来ていた。日本は外国の政策に習い、遊女の人身売買の規制などを目的とした『芸《げい》娼妓《しょうぎ》解放《かいほう》令《れい》』が発令される。遊女屋は「貸《かし》座敷《ざしき》」と改名される。 そして多くの妓女は三原屋を出て行くことになる。妓女のほとんどが「女衒」や「口減らし」を通して妓楼へやって来ているからだ。そういった妓女を対象に解放をしなくてはならない。三原屋では妓女の全員と古峰が対象となる。 梅乃と小夜は捨て子であり、三原屋で育っているからお咎《とがめ》めはない。再三の通告を無視し続けていた吉原にメスが入った形だ。「お婆……私たち、どうすれば……」 勝来と菖蒲が聞きにくると、「ううぅぅ……」 采は悩んでいる。妓女たちも不安そうな顔している。「ちょっと待っててください」 梅乃は勢いよく三原屋を飛び出す。「どこ行ったんだ?」 全員がポカンとしている。梅乃は長岡屋に来ていた。
第四十六話 袖を隠す者 昼見世の時間、禿たちは采に指示を受けていた。 「いいかい、妓女として芸のひとつは身につけておかないとダメだ! 舞踏、三味線、琴でもいい…… わかったね!」「はいっ!」 三人は元気に返事する。 この冬を越えれば梅乃と小夜は十三歳となる。 菖蒲や勝来は十四歳の終わりに水揚げをし、十五歳になったら客を取る準備をしなければならない。 それまでの準備期間となる。「まだ早いんじゃないか?」 文衛門が采に言うと 「あぁ、そうだね……早いかもね」 采は冷静な口調で返す。 「だったら何故……」 「今、しなかったらアイツ等は ずっと悲しんでるだろ? 気を逸《そ》らしていくのさ」 采は、そう言ってキセルに火をつける。 これは、采の考えがあっての行動である。 赤岩の死後、落ち込んだ空気を一変させる必要があったのだ。 これは禿だけではなく、三原屋や往診に出た見世にも言えることであった。 これにより、三原屋の妓女は禿たちに芸を教えることになる。 二階の酒宴などで使う部屋が練習部屋になっている。 古峰は琴を習っていた。 その要領は良く、習得が早い。 教えていたのは信濃である。「古峰……アンタ凄いわね」 信濃は目を丸くする。「い いえ、信濃姐さんが優しく教えてくれるので……」 古峰が謙遜すると、「嬉しい事を言ってくれる~♪」 信濃は古峰の肩を抱く。
第四十五話 名も無き朝深夜から明け方にかけて、岡田は梅乃の身体を温めていた。心配もあり、以前に玉芳が使っていた部屋を借りている。「梅乃、まだ寒いか?」 声を掛けると、「うぅぅ……」 声は小さいが、かすかに反応を見せる。 (よかった……) 岡田は梅乃と同じ布団に入り、体温の低下を防いでいた。 そこに小夜と古峰が部屋に入ってくる。 「梅乃―っ 大丈夫…… って……あの、何を……?」小夜と古峰が見たものは、一緒の布団に入っている二人の姿だった。「いやっ― これは体温低下を防ぐ為にだな……」 岡田が説明していると、「そんなのは、どうでもいいです。 梅乃はどうですか?」小夜は顔を強ばらせている。「体温は戻ったようだ。 何か温かいものを飲ませてくれ」 岡田は布団から出て、赤岩の部屋に向かった。外は、まだ暗いが朝が近づく。これから妓女たちは『後朝の別れ』をしなくてはならない。 岡田は息を潜めるように赤岩の横に座った。二階も騒がしく、菖蒲、勝来、花緒の三人も後朝の別れを始める。二階を使う妓女たちは、朝の目覚めの茶を入れる。そして客が飲み干し、満足そうにしたら後朝の別れとな
第四十四話 静寂の月赤岩が布団で横になっている。 そこに梅乃が看病をする。 岡田は中絶の依頼を受け、妓楼に向かっていた。「先生、しっかり……」 梅乃が赤岩に声を掛けている。 大部屋の妓女たちも赤岩の部屋を見てはザワザワしていた。「お前たち、さっさと支度するんだよ! 仕事しな、仕事……」これには采も見かねたようだ。夕方、妓女たちは引手茶屋に向かう。 その中には小夜や古峰もいるが、梅乃は赤岩の看病で部屋に籠もっていた。「先生……私はいます。 まずは安心して休んでください」 梅乃は濡れた手ぬぐいで赤岩の身体を拭いている。「梅乃……」 小さな声が聞こえる。 これは赤岩がうわごとの様に発している。 「先生……私はここにいます」 この言葉を何度言ったろうか。 やり手の席には采が座っているが、落ち着かない表情をしていた。そこに引手茶屋から妓女が客を連れて戻ってくる。 これから夜見世の時間が始まる合図である。梅乃は部屋から出て、客に頭を下げる。 時折、笑顔を見せては客を歓迎していく。 この笑顔に采は悲痛な思いを寄せていた。客入りの時間は岡田も三原屋に戻ってこられない。 もし、終わっていても何処かで時間を潰さないとならない。 客に安心を与える場所であり、夢の時間を